第一志望の企業から内定通知が届き、高揚感とともに承諾書にサインをした。しかしその数日後、他社からさらに好条件のオファーが届いたり、どうしても拭いきれない不安が芽生えたりして、決断を翻したくなることがあります。内定承諾後の辞退。これは転職活動において最も心理的負担が重く、かつ法的トラブルへの恐怖が付きまとう局面です。
一度イエスと言ったものをノーと言う。この行為は、ビジネスパーソンとしての信頼を損なうだけでなく、最悪の場合、損害賠償を請求されるのではないかという不安に駆られるのも無理はありません。しかし、2026年の流動的な労働市場において、キャリアのミスマッチを未然に防ぐことは、長期的には求職者と企業の双方にとって有益な判断であるとも言えます。
この記事では、転職記事のプロフェッショナルとして、内定承諾後の辞退が法的に可能かどうかという核心部分から、企業側が抱えるリスク、そして相手の怒りを最小限に抑えつつ誠意を伝えるための具体的な断り方のマナーまで徹底解説します。
法律の壁と契約の拘束力:内定辞退はどこまで許されるのか
まず最も重要な結論からお伝えします。内定承諾書にサインをした後であっても、内定を辞退することは法的に可能です。日本の法律において、労働者には退職の自由が保障されており、それは入社前の内定段階においても同様に適用されるからです。
民法第627条第1項には、雇用期間の定めのない労働契約において、解約の申し入れから2週間を経過することによって雇用が終了すると定められています。つまり、入社日の2週間前までに辞退の意思を伝えれば、法的には労働契約を解消することができるのです。たとえ承諾書に「いかなる理由があっても辞退しません」という文言があったとしても、憲法や民法が保障する個人の自由を拘束するほどの強制力はありません。
しかし、ここで注意が必要なのが、信義則上の責任です。企業側はあなたが入社することを前提に、備品の購入、オフィスの座席確保、研修の準備、さらには他の候補者への不採用通知といった実務を進めています。法的に辞退が可能であることと、道義的な責任を無視してよいことは、全く別の問題であることを肝に銘じなければなりません。
損害賠償を請求される可能性:都市伝説と現実の境界線
多くの求職者が最も恐れるのが、企業からの損害賠償請求です。「辞退するなら、これまでにかかった採用コストを請求する」という脅し文句は、残念ながら2026年現在でも一部の企業で見聞きされます。しかし、実際に賠償が認められるケースは極めて稀です。
過去の判例(三菱樹脂事件など)を紐解くと、企業側が賠償を勝ち取るためには、候補者が「入社を装って企業に多大な損害を負わせる意図があった」などの悪質性を証明しなければなりません。単なる心変わりや条件の比較による辞退では、採用コストは企業の通常の経営リスクの範囲内とみなされます。
ただし、以下の3つのケースに該当する場合は、法的なリスクが現実味を帯びる可能性があるため、慎重な対応が求められます。
入社のために特別な住居や社宅が用意され、すでに契約金や解約違約金が発生している場合。
あなた専用の特殊な機材やライセンスを、あなたの強い要望で購入してしまった場合。
入社を前提とした有償の研修や海外視察を、あなたの合意のもとで既に実施した場合。
これらの具体的な実損が発生している場合、その実費分についてのみ、話し合いによる補填や稀に法的な請求の対象となることがあります。しかし、通常の面接や適性検査にかかった人件費や広告費を個人に請求することは、法的に認められないのが通説です。
誠意ある辞退の第一歩:スピードこそが最大の誠実さである
辞退を決め、重い腰を上げる際に最も意識すべきはスピードです。あなたが一日遅らせるごとに、企業の採用担当者は無駄な準備を積み重ね、他の優秀な候補者を逃し続けることになります。
2026年の採用現場において、人事担当者は非常に厳しいKPI(重要業績評価指標)を抱えています。一人の辞退は、単に枠が空くこと以上のダメージを組織に与えます。早めに伝えることで、企業は補欠合格者の繰り上げや、募集活動の再開といったリカバリーショットを打つことができます。
言い出しにくいからといってメールを一通送って音信不通になる、いわゆるゴースト化は、社会人として最低の選択です。業界は驚くほど狭く、数年後に転職先や取引先でかつての担当者と再会する可能性も否定できません。プロフェッショナルとしての評判を守るためにも、正面から向き合う姿勢が求められます。
電話かメールか:連絡手段の選択とマナーの定石
連絡手段の優先順位は、間違いなく「電話」が先です。特に内定承諾後は、すでに強固な信頼関係が構築されている段階です。テキストだけの連絡では、相手に冷淡な印象を与え、不要な反発を招く恐れがあります。
まずは電話で直接伝える
担当者に直接繋いでもらい、申し訳なさを込めて口頭で伝えます。相手が不在の場合は、戻り時間を伺うか、急ぎの用件である旨を伝えてください。
理由の伝え方を工夫する
一身上の都合や、熟考の末の他社への決断など、嘘を吐かずに、しかし相手を否定しない理由を選びます。
電話の後に記録としてメールを送る
電話での会話内容を確認する意味で、正式な辞退届としてのメールを同日中に送信します。
もし、上司や担当者から電話で激しく叱責されたり、執拗に理由を問い詰められたりしたとしても、感情的に反論してはいけません。「多大なご迷惑をおかけすることは承知しておりますが、決意は変わりません」という一貫した姿勢を維持しつつ、真摯に謝罪を繰り返すのが、最も早く場を収める方法です。
相手を納得させる「辞退の理由」の作り方
理由は、具体的であればあるほど良いわけではありません。詳しすぎる説明は、かえって相手に反論の余地(カウンターオファー)を与えてしまいます。基本的には「熟考の末、別の環境での挑戦を決意した」という方向性で押し通すのが、2026年のスマートな辞退術です。
他社に行く場合でも、具体的な社名を出す必要はありません。条件が良かったから、と言うよりも「自分のキャリアビジョンをより高い精度で実現できる機会があった」と伝えることで、個人の人生の選択であることを強調します。家族の反対や健康上の理由などを嘘の口実にするのは避けるべきです。万が一嘘が露呈した際のリスクが大きすぎるからです。
ケース別:辞退連絡の文面・トークスクリプトのひな形
ここでは、電話とメールで使える、相手の感情に配慮したプロフェッショナルな言葉遣いの例を紹介します。
電話でのトークスクリプト例
お世話になっております。先日内定の承諾をいたしました〇〇です。採用担当の〇〇様はいらっしゃいますでしょうか。 〇〇様、本日は大変申し上げにくいことがありお電話いたしました。先日内定の承諾書を提出させていただきましたが、誠に勝手ながら、この度の内定を辞退させていただきたく存じます。 承諾のご返事をした後で、このようなご迷惑をおかけすることを心よりお詫び申し上げます。自分のキャリアについて改めて深く考え抜いた結果、他社への入社を決断いたしました。多大なるご期待を寄せていただいた中、期待を裏切る形となってしまい、本当に申し訳ございません。
メールでの追記連絡例
件名:【重要】内定辞退のご連絡(氏名) 本文: 株式会社〇〇 採用担当者様
平素より大変お世話になっております。 先ほどお電話にてお伝えいたしましたが、改めて書面にてご連絡申し上げます。
この度、一度は内定承諾をいたしましたが、慎重に検討を重ねました結果、 貴社への入社を辞退させていただきたくお願い申し上げます。
承諾書を提出し、入社の準備を進めていただいた中でのこのような申し出となり、 〇〇様をはじめ、関係者の皆様には多大なるご迷惑をおかけすることを、 重ねて深くお詫び申し上げます。
本来であれば直接お伺いしてお詫びすべきところですが、 まずはお電話とメールにて、取り急ぎのご報告を失礼いたします。
末筆ながら、貴社の益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。
厚生労働省のデータと人的資本経営から読み解く離職の実態
厚生労働省が公表している「雇用動向調査」によれば、入社後の早期離職率は一定の割合で存在し続けています。企業側にとって最も避けたいのは、内定辞退よりも「入社直後のミスマッチによる早期離職」です。
入社した後に「やはり合わなかった」と数ヶ月で辞めてしまう方が、企業が支払うサンクコスト(埋没費用)は格段に大きくなります。社会保険の手続き、研修費用の投入、そしてチームへの配置。これら全てが無に帰すダメージに比べれば、入社前に辞退してもらう方が、長期的には損失が少ないというのが経営層の本音でもあります。
2026年の採用現場では、人的資本の最適配置が叫ばれています。あなたが「自分はこの場所で輝けない」と確信したのであれば、それは企業にとっても「自社の資産を活かせない」ことを意味します。この事実を冷静に受け止め、申し訳なさを抱えつつも、自分のキャリアに対する誠実さを優先してください。
最終確認:送信ボタンを押す前にチェックすべきこと
辞退の連絡は、一度行えば取り消すことはできません。感情に流されていないか、以下のポイントを冷静に確認してください。
新しい内定先から、正式な内定通知書(労働条件通知書)を紙またはPDFで受領しているか。
辞退の理由は、単なる一時的な不安ではなく、将来のキャリアに基づいた確固たるものか。
連絡先の担当者名、社名に間違いはなく、敬語の使い方は適切であるか。
これらが全てクリアされているのであれば、あなたは自信を持って次のステージへ進む権利があります。
結びに:断る勇気が、新しい扉を拓く
内定辞退は、誰にとっても気分の良いものではありません。しかし、転職活動はあなたの人生を豊かにするための手段であり、会社に尽くすことが目的ではありません。誠実にお詫びをし、マナーを尽くしたのであれば、それ以上自分を責める必要はありません。
今回、その企業を断るという決断をしたからこそ、あなたは新しい職場でより一層の成果を出し、貢献しなければならないというポジティブな重圧を背負うことになります。その覚悟こそが、あなたの次のキャリアを力強く加速させるエネルギーになるはずです。
誰かをがっかりさせてしまうという痛みを知っているあなたは、新しい職場ではより周囲を大切にし、誠実に働くことができるでしょう。その優しさと強さを持って、胸を張って新しいスタートを切ってください。
次の一歩として、まずは辞退する企業への電話をかける時間帯を決め、静かな場所を確保することから始めてみませんか。その一本の電話を終えた時、あなたの視界は驚くほどクリアになり、本当に行くべき場所への道筋が見えてくるはずです。